2015年1月31日土曜日

「知る」ということ。

今日は有名なジャーナリストの人の講演を聞いてきました。




お題は「報道とプライバシー」というものだったんですけど,お題にとらわれず,いろんな話を聞けました。

土曜日なのにいっぱい人がいて,特に中高生向けということもあり,話が分かりやすくてみんな熱心に聞いてました。


私は私用があったので途中抜けたりして全部聞いてないんですけど,大変興味深く拝聴しました。

特に印象に残ったのが,

「最近は,(プライバシー保護という観点から)学校でも連絡網がなかったり,運動会等の行事で写真を撮影する業者を入れなかったりする。ひょっとしたら若い人たちはそれが(そのこと自体の是非は別として)『当たり前』のこととして受け止めているかもしれない。そうすると,役所とかが「プライバシー保護」という名目で(なんらかの)規制することに慣れる,『規制慣れ』というものも出てくるかもしれない。」

みたいなこと言ってました。


なるほど。その発想はなかった。


さすが第一線で活躍されているジャーナリストだ。我々のような法律でかんじがらめの見方とは別角度で物事を見られている。確かにそうかもしれない。おれらの頃は普通に卒業アルバムに住所載ってたもんなー。連絡網も全員分の載ってたし,昔,好きな子に突然電話を架けて告ってみようかとドキドキした甘酸っぱい思い出も,今の学生さんたちはできないのかもしれないなー。


みたいなこと考えてたら,以前お世話になった先生が教え子連れて会場にいて思いっきり油断した素顔見られました。


え?なんでここにいんの?いや一般公開だし中高生向けだからいても全く不思議じゃないんだけどこっちはプライベートで来てるんだから,ものすごい油断した顔と寝癖なのよ?せめてヒゲぐらい剃らせてよ。

「先生,ブログ読んでます。」

お,おう。

「更新がないと,大丈夫かなと心配しています。」

お,おう。

「更新したら,みんな(当時の教え子達)にLINEで知らせているんです。」


それもうストーカーだよね。


まぁそんな出会いもありつつ,楽しいひとときを過ごせました。

そしてふと思いました。「今日の講演の中身,ちゃんと理解して帰ったんだろうか…」と。

はい,ではここで渡部先生のいつものありがたいお話の始まりです(暇な人以外は回れ右)。

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以下に述べる見解は,いわゆる学説上の法的見解ではなく,あくまで一弁護士の一つの見解だと思ってください。
世の中,鵜呑みにして良いことなんて一つもありません。
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今日の講演で,再三「知る権利は大事」というお話が出てきました。

現場の人間(ぼく弁護士)の感覚だと,「知る権利は大事」という意識は,今の世の中,下がってきていると思います(根拠は長くなるから割愛)。

憲法には,いろいろ人権のことが書いてありますが,私はその中でも「表現の自由」,そしてそれのもとになる「知る権利」はぶっちぎりに大事だと思っています。

今日の講演で,学生さんが,「◯◯という情報にアクセスしようとすること自体は『悪』なのか」という大変哲学的な質問をされておりましたが,私は「知ろうとすること」自体に善悪はないと思っています。

なぜ「知る権利」がぶっちぎりに大事かというと,人間が自分の考え方を形成し,自分の思うように人生を営んでいくためには,「自由に情報を得られる」ということが必要不可欠な条件なのです。

情報統制化の社会の中で,真に自己実現(砕けた言い方すると納得いく人生を送ること)はできません。わからない人は世界史をもう一度勉強してください。私は社会主義の悪口を言う気はさらさらないですが,要はそういうことです。

もっとわかりやすく言えば,なんで最近モンゴル出身のお相撲さんがやたら増えたか考えてみてください。こっちの方が分かりやすい。モンゴル相撲は昔からあったのに,なんで?

さらにわかりやすく言えば,なんでキューバ出身のプロ野球選手が最近日本の球場でバカバカホームラン打っているか考えてみてください。要はそういうことです。

彼らは情報を得た(あるいは情報を得ることを許された)ことによって,楽しい日本ライフを送っています(いや楽しいかどうかは知らんけど)。

ぼくは生物学に全く精通していないんですけど,人間が他の生物に勝っている点は,知的好奇心の高さ,知的追求欲の高さだと思っています。

知的追求欲ががなくなってしまったら,そこで人間はおしまいです。奴隷,家畜同然です。

「知りたい」という気持ちは,人間の営みの中でも特に重視されるべきであり,「知ることができる」喜びというものを当たり前のものとして甘受している場合ではないのです。




と,ここまで「知る権利」の素晴らしさをつらつら書きましたが,じゃあ「知る権利」が全てに優先されるべきかといったら,そんなことはありません。

そう,代表的なものが「プライバシー権との調整」ですね。

プライバシーとの調整について,法的に書くことももちろんできますが,そのためには先生がきちんと文献にあたらなければなりません。

先生はそんなことをするぐらいだったら自分の確定申告の準備をしなければなりませんし,何よりその辺の書店で憲法の本を買って読んでいただいた方が先生が説明するよりも詳しく書いてあるのでそっちを読んだらいいと思っています。

そこで今日,先生が君たち(あ,今日は教え子向けの更新です。)に考えて欲しいことは,「知ろうとすることは尊いことだけど,それによってどんな人が傷つくか考えることも同じぐらい大事だ。」ということです。



先生は,人間の「知る」という行為は,次のような段階を踏むと考えています。
①知りたいと思う(動機)
②実際に知ろうとする(アクセス)
③知った情報を取り扱う(表現)

この3段階です。


①知りたいと思う(動機)

上述のとおり,①に善悪はないと思っています。まだ実際に行動に起こしていないわけですし,誰も傷つきません。何かを知りたいと思うことは,人間にとってとても重要なファクターなので,何かに対してそう思えたら,誇りに思ってください。


②実際に知ろうとする(アクセス)

②から問題が発生します。

②アクセスは方法が妥当であるかを常に意識してください。

アクセスの方法は無限にあります。人に聞いたり,ネットで調べたり,いっぱい考えられます。

その際,難しい話は置いておいて,人が嫌がったり,人が悲しむ可能性のあるアクセスは絶対にやめましょう。

例えば好きな子の住所が知りたくて,尾行して住所を知ったとします。

そうですね,これは誰がどうみても変態ストーカーです。住所が知りたければ正々堂々とその子に告白すればいいんです。先生はそれで何度玉砕したこt(以下略

例えば,なんかウィルス仕込んで他人のPCに入り込もうとしていませんか?

そうですね。相手も嫌がるでしょうし,何よりあなたの家族が悲しむと思いますし,そういうことすると先生のお仕事になっちゃうので絶対にやめてください。


③知った情報を取り扱う(表現)

③表現はイメージ湧くと思います。他人の悪口は絶対に許されません。

なお,「悪口」と「批判」の線引きは難しい時があります。

迷ったらやめましょう。親御さんに相談してください。

あと,これは先生の感覚ですが,ネットでお友達の「批判」は書くべきではありません。

なぜならお友達の「批判」は,そのお友達に直接言えばいいからです。基本的に本人いないところで言うのは全部「かげ口」だって,おれのばあちゃんも言ってました。

なお,これは今日の講演でもありましたが,情報は必ず裏付けをとってください。

ネットの書き込みを鵜呑みにするなんて愚の骨頂です。これは今日の講演で非常に良いこと言うなーと思っていました。

最近はネットが普及しすぎて,情報の取捨選択の適切さが,情報の受け手に求められています。

それこそ自分と同じような意見の人たちの情報にしか触れない環境を構築するなんて簡単で,そうなると,人間不思議と考えることをやめます。思考停止マシーンです。知的追求をしているつもりが知的追求欲のない,ある意味奴隷みたいな状態になってしまいます。

必ず,自分とは違う人たちの意見にも耳を傾け,きちんと自分の中で事実(真実)はいったいなんなのか,疑問を呈し続けてください。



(今日のまとめ)

「知る」という行為は尊い行為ですが,どんなケースでも許されるというものではありません。

必ず迷ってください。迷いというものは,人間の自己防衛本能です。迷いがある人間になってください。

そしてなにより。

いいですね。情報は裏付けが必要なんです。一義的なアクセスで満足しないでください。

そう。

このブログを鵜呑みにしないでください。









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